錯覚。

似て非なるもの。
似ているようで、本質的には全く違うもののことを、こう言いますね。


中でも6つ、身近な錯覚を。


■ 贅沢をして、幸福であると思うこと。
□満ち足りていること、不平や不満がなく、たのしいことが幸福であり、
必要な程度、ふさわしい程度を超えることが贅沢です。
“過ぎたるは及ばざるが如し” 自分としっくり調和するのが最も良い。


■ うまく人を騙して、自分は頭が良いと思うこと。
□うそを言って、本当でないことを本当であると思い込ませる程度の間に合わせは、
能力ではない。むしろ恥ずべきことです。


■ 貪欲の結果、物をあつめて自分にそれだけの手腕があると思うこと。
□どんな立派なものを持っていようと、使いこなせなければ実力とはいえない。
ましてや、それが欲深さから手に入れたものなど身にはつかない。
腕前(物事をうまく処理していく能力)あっての、肩書きや資格や知識、
また、お金や時間だということ。


■ 小心でちょっとした事にも恐れている者が、慎重派だと思うこと。
□理性的で軽々しくないことは、ちょっとしたことにも怖がったり尻込みしたりする臆病や
気が小さいこととは、はっきり違う。
注意深く心を働かせて考えること、行動・言葉などに分別のあることが慎重。


■ 喧嘩ばかりしていながら、自分には勇気があると言うこと。
□言い合ったり殴り合ったりして争う騒がしさと、困難や危険を恐れない勇気とは、
心の強さが違う。


■ 上に立つ者が下の者を叱りつけて、いかにも威厳があると思うこと。
□ 過ちや罪・欠点などを取り上げて責めるのが叱ること。
その存在自体に、相手自らの心が引き締まるものが威厳。
叱りつけることは相手が目下の者であれば、誰にでもできる。
「認められている」存在であることが大事。


艱難(困難に出あって苦しみ悩むこと)は、経験を積んでいない人にとっては辛いけれども、
自分のためになるものです。


富むということ1つとっても、苦労がなくなることではなくて、
苦労の種類が変わることに過ぎないものです。


もし、思い違いというものがあれば、誤らないようにしたいですね。