セミ

往く夏を惜しむように、蝉が鳴いていますね。


一匹の蝉の声が耳に障ることがあれば、鎮守の森で、あれだけの数の蝉が
同時に鳴いても協和さえ感じられこともある。
私たちの心持ちひとつなのでしょうか・・・。


「閑さや岩にしみ入る蝉の声」・・・芭蕉


広すぎれば余韻として残すことができず、狭ければ音に
重量感が伴わない。
私たちの声(言葉)は、普段どのように響いているのでしょうね。


皆さんは小さい頃、蝉の抜け殻など採集したことはありますか?
べっ甲色の、 その殻を「空蝉(うつせみ)」 といいます。
掌に乗せても実体がないかのごとく、軽い抜け殻は幻のように思え、また蝉の
これから先長くないことなどを合せ考えると、儚さを感じるものでもあります。


句の中では昼間の蝉の賑わいを表した句も多くありますが、反面 、その命の短さを
詠んだ句も少なくありません。
あれだけ主張していながらその数日後、ぽとりと土の上に骸をさらしている蝉。
それを見た我々は、己の人生や死について、 ほんの少し考えるところがあります。


「太く短く、生きる」か「細く長く、生きる」かという例えがありますが、
短いか長いか・・・時間的なものは私たちに選択の余地がありません。
しかし、どのように生きるかは、自分で決めることができるものです。
果敢に、懸命に自分を表現して生きることを蝉の姿に重ねることができると思います。
蝉のそれは、本能なのでしょうが、私たちはプラス理性や、知や、思考を
持っていますから、より良く活かして生きたいですね。


これから日一日と空が澄んで高くなっていくにつれ、ひとつ、またひとつと蝉の声は
絶えていくことでしょう。
柿の 実が色付き、鶏頭の色が褪せるころ、ふと気付くと法師蝉(つくつくほうし:秋蝉)
の声は、ぱったり止んでいます。
この声が聞かれなくなってからが本格的な秋の到来です。