言うは易し、行うは・・・

「ダメだな、あの人は人望がないから」
この一言で、その人の前途は断たれてしまう。
その人がいかに有能であっても、この言葉には反論の余地がない。


あることの理由に、「不徳の致すところ」と言ったりするが
一体、この徳とは何なのか。
それと人望は、どんな関係にあるのか・・・。


朱子学の入門書『近思録』によると
「徳は、天よりわが身に稟(う)けて、生まれついた理で、仁義礼知信をいう。
愛することを仁といい、事を決して宜しきを義といい、筋道を立てることを礼といい
是非邪正に通暁することを知といい、実を守ってたがわぬことを信という。
これらの道理を天に得たるままに保全し、勤めず励まさず、自ら行うことの
できるものを聖人という」


“徳”とは、すぐれた品性のことで、
「仁」「義」「礼」「知」「信」の5大徳目をいう。
【仁】・・・他人と親しみ、思いやりの心をもって共生(きょうせい)を実現しようとすること。
【義】・・・どんなことがあっても、人として正しい道を守ること。
【礼】・・・相手を大事にする、豊かな心を示すこと。
     (妬まず、誇らず、驕らず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を思
     わず、 敬う)
【知】・・・物事の本質を知ること、物事を見抜き理解すること。
     (“是と非”正しいことと正しくないこと。また、正しいかどうかということや
      “邪と正”道にはずれていることと正しいこと。(不正と正。悪と善))
【信】・・・周りの人から信頼されること。
     (あざむかないこと。いつわらないこと。忠実なこと。)
      


これらの、人として行うべき正しい道を、いつも当たり前に自ら行うことのできる人を
“徳の高いひと”という。


こうして見てみると、「ああ、本当に・・・」と思うことばかりですね。
日ごろ、素敵だなと思う人に重なるところの多いことに気が付きます。
こうも素直に受け入れることができるのに、行うことの難しさを考えさせられます。


人は誰でも不知不識(しらずしらず)のうちに、自らを「自分は別」という
位置に置きたがり、自分以外に原因を探しがちですね。
そして、喜・怒・哀・懼(おそれ=心配)・愛・悪(憎しみ)欲という
「七情」があるために、他人を押しのけたり、自己主張をしたり
人を怨んだり、貪欲になったりという『私心』が生じてしまいます。


「自分の心を治める」ことに努め、
「徳」に達するための心がけを、皆が行えるように・・・


自覚と目的を。


最後に、“人望”とは、信頼できる人物として、人々から慕い仰がれること。人気のこと。
「仁」「義」「礼」「知」の上に「信」が成り立つと言われます。
「信」・・嘘をつかず、約束を守ることが信です。
徳を身に付けた人には自然と信用、信頼が付いてくるものです。
つまり、信とは外からその人を見て気付くものです。
智とは自分で気づくが、信は自分では気づかず、他人が気づくことです。


ここに、“徳と人望”の関わりがありました。